マクルーハン(01) | いまのままぢゃダメだ! ・・たぶん。

マクルーハン(01)

第一部 マクルーハンとはどんな男か


一 マーシャル・マクルーハンについて


   生い立ち、カソリシズム、ヨーロッパ文学の深い知識


 彼の名はハーバート・マーシャル・マクルーハン Herbert Marshall McLuhan というが、彼自身はハーバートというファースト・ネームをほとんど使わない。彼の著書すら MarshallMcLuhan とだけ出ている。米英人は普通ミドル・ネームを頭文字だけに省略したり、使わなかったりするのだが、彼は Marshallをつねに使うので、それをファーストネ-ムと誤解している人が多い。
「H・M・マクルーハンは一般人で、マーシャル・マクルーハンはフロイド、アインシュタインと並ぶ大思想家だ、と彼は分けて使っているらしい」というようにニューヨーク・タイムズは評したことがある。
 「わしにはマーシャルのいうことはわからんよ」とH・Mは普通人の一人としていう。「マーシャルはハップニングのこの世界をますますわからぬものにする。なにも起こらなきゃもっと気楽なのに。」
 マーシャル・マクルーハンは突飛な空想家で、斬新なコミュニケーション理論を開陳する。H・M・マクルーハンはまじめな大学教師として学校で教え、平凡な家庭生活を送り、電話帳に名前をのせている。こんなふうに英国の批評家リチャード・コステラネッツが書いているほどだ。名前の使い方からして常人と変わっているのである。
 彼は一九一一年、西部カナダのアルバータ州エドモントン市に生まれた。私もこの町を訪れたことがあるが、ちょうどアメリカでいうなら中西部で、はてしなく平原が続く。こんなところに育つ人間は、まず、こせこせした性格にはならないと思う。彼の発言が大胆で、微妙な相違などは無視するのは、育った風土が影響しているのかもしれない。その風貌もたしかに大陸的である。どこといって特徴はないが、なにか大きなものを感じさせる顔なのだ。
 両親ともプロテスタントで、いろいろな宗派の教会へ行くのが好きだったという。父の職業は不動産と保険のセールスマンだったが、「仕事はそっちのけで、人々と話し込むのが好きだった」とマクルーハンは父を語っている。母親も話を独占するタイプだったらしい。彼の雄弁は親譲りといえよう。兄弟の一人は現在カリフォルニアで技師をしているし十歳のとき、すでに鉱石ラジオを自作して近所の人々を驚かせ、「自分も生涯忘れ得ぬスリルを味わった」そうである。

 カナダのマニトバ大学工学部に入学したが、夏休みに文学書に凝るようになって、英文学専攻に転じた。そこで文学士と修士号をとったのち、多くの野心あるカナダ人と同じように英国に渡り、ケンブリッジ大学に二年間学んだ。
 マニトバ大学時代はマリタン Maritain とかギルソン Gilson といったカトリック作家に凝ったが、ケンブリッジではⅠ・A・リチャーズRichards や F・K・リーヴィス Leavis の講義にもっとも感銘をうけ、大衆文化を研究しはじめたという。
 一九三六年にカナダに帰り、アメリカのウィスコンシン大学で教鞭をとったが、翌年カトリック教に改宗、以後カトリック系の学校でばかり教えている。一九二七年から一九四四年までセントルイス大学、一九四四年から一九四六年までカナダのアサンプション大学、一九四六年からトロント大学のセント・マイケル・カレッジと、すべてカトリック系の大学である。一九六七年秋からはニューヨーク州のフォーダム大学へ移るが、これもたしかカトリック系のはずだ。
 彼のような斬新な発想をする男が、キリスト教でも古いほうのカソリシズムに改宗しているのはおかしいと思われようが、壮大荘敢な教会の中でのミサを体験した方なら、それがマクルーハンのいう「深いところでのコミュニケーション体験」であることがおわかりだろう。
 プロテスタント教会には見られぬ祭壇の深い美しさ、香のにおい、着飾った僧の動き、響きわたる声-人間の全感覚をゆり動かす荘餃なミサである。説教にしてもプロテスタントのものと大いに異なる。いわゆるインテリとして、頭で客観視する態度ではまったく理解できない祈祷文が朗読される。そのなかに投入する気持ちになってはじめて全体験が可能となるのである。マクルーハンは絶えず五感全部の深層体験を強調しているが、カソリシズムと関係がないとは考えられないのである。
 ケンブリッジ時代に影響を与えた作家たちが、後年のマクルーハンを形成したといわれる。彼は多くの批評家や学者を徹底的にけなすことで有名だが、当時影響をうけた人々については、つぎのように賛辞を呈している。
 エドガー・アラン・ポー-彼は探偵小説の創始者だった。読者の想像力を刺激し、自分自身で考えさせた。
 ジェイムズ・ジョイス-彼は窮極のメディアとしての言語からスタートする。「フィネガンズ・ウェイク」こそは人間の全社会におよぼすテクノロジーの影響の研究である。
 ダスターヴ・フローペル-スタイルが知覚の方法であることを指摘した。 T・S・エリオットとユズラ・パウンド-彼らの詩はジャズ用語と大衆文化形式に満ちている。
 ランボー、ボードレール、マラルメ-これらのシンポリストたちから、私は自分のスタイルを学んだのだ。彼らは暗示するが説明しない……。
 教職についてからも、一時(一九三九年)ケンブリッジ大学へ大学院学生として復帰し、トーマス・ナッシュ (エリザベス朝時代の詩人)についての論文を書くことになった。英国再訪には、いま一つ美しいテキサス生まれの女優コリーン・ルイスとのハネムーンの意味もあった。彼女に会ったのはその前年、カリフォルニア州パサデナ劇場である。
 当時の彼女の美しさは「目も覚めんはかりだった」という。ライフ誌が一九六六年にうつした家族写真にもその美しさは十分残っているが、彼女は美貌だけでなく、知的で、いまは夫の原稿を整理することもあるという。
 マクルーハン自身の告白によると、彼がはじめて大衆文化 pop culture と出金ったのは、一九三六年、ウィスコンシン大学でアメリカの大学一年生を教えたときである。いまは「大衆文化を擁護する哲学者」といわれる彼だが、そのとき彼はその若い学生たちが理解できず、「急いで彼らの大衆文化を研究しなくては」と思ったのである。
 一九四二年に彼の博士論文「トーマス・ナッシュの修辞法」は完成し、以後、彼は若手の英文学老として専門学術誌に論文を寄稿しはじめる。今日まで英文学者たちの問では、マクルーハンの名はテニソンの詩を集めた教科書の編集者として知られているのである。その他、彼のジョン・ドス・パソスやサムエル・テイラー・コールリッジなどについての評論は名論文集にしばしば収められた。
 コミュニケーションの理論家として知られる以前に、マクルーハンはヨーロッパ文学について広い知識をもっていたのである。彼の著書には驚くほど多方面からの引用があるが、彼の経歴を知ると、それも当然であることがわかるのだ。