手塚治虫(後編) | いまのままぢゃダメだ! ・・たぶん。

手塚治虫(後編)

フツーの人っぽい。

手塚治虫の素顔をのぞかせる、この文章。

とても気に入りました。

当たり前のことなんでしょうけどね。

→ この文章には、前編があります。まずはそちらからどうぞ。・・・こちらから

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(続き)

 そんな過酷な状況下で、虫プロはアニメ作りを続けた。何かの衝動に突き動かされるかのように。
 彼らの思いは、放送が始まると電波に乗って少年たちの心に届く。初回の視聴率は27.4%。そして、回を重ねるごとに視聴者の支持は高まっていく。第4話で30%を突破し、最高で40%を超える人気番組に成長した。
 見たことのないアニメ。物語の根底には深くて重いテーマが流れていた。「ヒューマニズム、科学、恋愛、文明批判・・・。アトムの中には、すべてがあった」。演出を手がけた杉井ギサブローは、魅力の本質をそう見ていた。
 だから、大人たちも引き込まれた。高い視聴率はその証左である。
 絵を動かさなくても、魅力的なアニメが作れる。手塚はそれを証明してみせた。
 「産業革命だった」(杉井)。
 アトムが成功すると、新しい国産アニメが次々と放映されていった。それは、アニメ大国への序章でもあった。
 アトムが始まった63年、「鉄人28号」(フジテレビ)、「エイトマン」(TBS)がスタートする。続いて、66年に「おそ松くん」(テレビ朝日)、68年には「巨人の星」(日本テレビ〉と各局はアニメ番組に力を注いだ。
 テレビ局の編成にも変革が起きる。子供が視聴しやすい午後6時台に、広告が集められるドル箱番組を置けるようになった。そして、菓子や玩具業界の企業が、テレビを宣伝戦略の中心に位置づけ始めた。
 明治製菓は、アトムの強力な宣伝効果でライバルの森永を抜き去った。劣勢だったマーブルチョコレートは、アトムシールをおまけにつけると、社会現象になるほどの人気商品となった。
 テレビ黄金時代の幕開け-。
 60年代前半、テレビは最強メディアとしての地位を確立する。
 アニメばかりではない。実はアトムが放映されていた63年から66年までの4年間に、テレビ歴代視聴率上位10番組のうち6番組が集中している。64年には東京オリンピックが開催された。「東洋の魔女」と呼ばれたバレーボールの全日本女子が優勝すると、視聴率は歴代2位の66.8%に達した。
 アトムが最終回を迎えた66年には、バトンを受け継ぐように、新たなヒーローが登場する。特撮番組「ウルトラマン」(TBS)だ。
 制作を手がけたのは54年に特撮映画「ゴジラ」を発表し、米国でも話題を呼んだ円谷英二率いる円谷プロダクション。円谷は、ウルトラマンの特撮シーンに高い完成度を求めた。
 「テレビ局がOKを出した場面でも、円谷さんが許さない」。円谷プロ・チーフプロデューサーの鈴木清は、徹夜で撮影手法を議論したという。
 だが、ウルトラマ
 ンは異例の幕切れを迎える。42.8%という常異約な視聴率を記録しながら、わずか1年足らずで突然、終了した。
 「円谷さんの職人気質がたたって、制作が遅れ、納品できなくなった。仕方なく、「さらばウルトラマン」という題にして強引に打ち切った」(満田かずほ・円谷プロ顧問)


アトムは自分の作品じやない


 アトムの制作現場も同じだった。手塚自身が制作にのめり込んでしまう。
 「手塚さんがかかわったのは第3話まで。芸術家だから、描き出すと、とことん凝って、納期が守れない」
 アトムの演出を担当していた坂本雄作は、天才がもたらす副作用を恐れていた。放送の継続には、手塚を制作現場から遠ざけるしかなかった。
 「あれは自分の作品じゃない」
 いつしか手塚はそう漏らすようになった。そして、スタッフを中傷する。
 ある夜、坂本の所に手塚がやってきた。そしで、涙を流した。
 「私は人が信用できないんです」
 アニメに携われない状況に、手塚は耐え難い思いを抱いていた。
 最終回、アトムは地球を救うため太陽に飛び込んだ。壮維な最期だった。「あのシーンには、独り歩きするアトムヘの、手塚さんの複雑な思いが込められていたのではないか」(坂本)
 その後、虫プロは73年に倒産。手塚は豪邸を出て、借家に移った。この時、「もうアニメはやらない」と誓ったが、5年ともたなかった。
 「アニメは絵を自由に動かせるから、神になった気分になる。その魅力が忘れられなかったのではないか」(手塚プロダクション社長の松谷孝征)
 89年、亡くなる10日前のこと。病室で新作アニメをチェックする手塚の姿があった。画期的なアニメを創造し、テレビに革命を起こした天才。その彼も、アニメの魔力に取り憑かれ映像の狭間に落ちていくかのように息絶えた。


<Nikkei Business 2006.1.23>

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